大正一二年、関東大震災(zāi)が日本の経済に大打撃をあたえた直後。時の政府?資本家たちは治安維持法を制定してプロレタリア弾圧にのりだしていた。京都同志社大學(xué)で教壇にたって生物學(xué)者山本宣治は、その頃新しい考えかたによる性教育の必要を痛感して、教室で講義をしたり労組の集りで産児制限の講演をおこなったりしていた。だが、大學(xué)當(dāng)局や政府筋は彼の行動を妨害した。大正一四年。ソヴェト労組代表が來日し、これを機(jī)會に政府は多くの自由主義的な學(xué)生や労勧者を検束した。宣治も同志社を追放され、労働黨の運動に加わった。佐山村農(nóng)民組合爭議の慘狀を目のあたりにして、彼は自分の生物學(xué)者としての考えかたを世に徹底させるためには、まず政治を改めねばならぬのを知った。妻千代や三人の息子は彼のよさ理解者であった。生家である料亭花屋敷を経営する父亀松、母多年も、考えかたこそ異れ、息子を信頼していた。... (展開全部)